鉄道の発展につくした
異色の土木業者

下田組について

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明治20年、御殿場線の難所、箱根越えのトンネル工事が開始された。
このとき、この工事現場に米や雑貨を納入する一人の男がいた。
旅館業や米穀商を営む下田助次郎である。
彼こそ、後の下田組創始者。
なぜ、彼は家業を捨て鉄道業に転身したのか。
異色の土木請負業、下田助次郎の半生をたどってみたい。
下田組創始者 下田助次郎

下田組創始者
下田助次郎

土木請負業。小川徳平氏との出会い

異色の土木請負業者といわれた下田組初代、下田助次郎は、安政元年(1854)8月3日、相模国(神奈川県)足柄上郡足柄村字関本の農業、下田政右衛門の長男として生まれ、幼少の頃から家業の農業に従事し、のちに米穀商と大雄山最乗寺の参拝客相手の旅館業を営んでいた。
明治20年鉄道局は、御殿場経由の東海道幹線国府津~静岡間を明治22年に開業すべく工事を発注したが、箱根越えのこの線区は、千分の二十五の急勾配が16kmにもおよぶ峻嶮な地形で、中でも山北~小山(現在の駿河小山)間は、わずか8.7kmの距離にトンネルが7カ所、橋梁が9カ所に及び、この線区中もっとも困難な工事が予測されていた。
この7カ所のトンネルのうち南一郎平氏のひきいる現業社が、第1号トンネルを除く6カ所のトンネルを請負、中でも最長の第2号トンネル(522m)は、現業社配下の小川徳平氏に掘削を請け負わせた。小川氏は南一郎平氏が豊後、豊前(大分県)の広瀬井堰工事を施工して以来の腹心の配下で「穴掘りの名人」と異名をとるなど、トンネル工事に優れた人物であった。第2号トンネルは明治20年6月に着工、玉石混じりの岩石を手堀りと鉱山用の火薬を用いてすすめられたが、多量の湧き水に見舞われ、他のトンネルも同様に工事は容易に進展しなかった。この現状に対し明治22年の開業をめざしていた鉄道局は、21年中の完成を厳しく要求してきたため、やむなく小川氏は元請の現業社と相談のうえ、労働者に苛酷なまでの時間外労働を強要し、また多額の賞金をかけて、戦争さながらの競争による非常手段に訴えた。
こうした無謀ともいえる労働者使役の末、6カ所のトンネルは明治21年12月に完成し、翌22年に国府津~静岡間の開通をみたのだった。
しかし建設費は請負金額をおおきくうわまわり、現業社と下請けの小川氏は過去の工事の利益をすべてつぎ込んでも、さらに莫大な借財を残してしまった。この工事のあいだ下田助次郎は、米穀商として小川氏の現場に、米、塩、雑品の供給を行っていたが、苛酷な現場状況のなか、鉄道局の強硬な督促と労働者の間に立って苦悩する小川氏に同情し、またその人柄にほれこみ、商いの限界を超えて、多額な金子まで用立てていた。
下田助次郎33才のときである。膨大な負債をかかえた現業社は、再起をかけて、日本鉄道第5工区線(盛岡~青森間)最長の鳥越トンネル(1,030m)をはじめ、土屋、轟木、目時などのトンネル掘削工事を請け負った。
下田助次郎は、「現在の小川に返済を求めても無理なこと、むしろ組を再建できれば、用立てた金子は自ずと自分に返ってくる」と返済を求めず、小川氏を慕うて東北におもむき、その元で働いた。
しかし第5区線の収益は、組の再建にはつながらず、さらに横川~軽井沢間の工事で資材運搬を請け負ったのを最後に現業社は解散した。

明治36年 下田助次郎が「下田組」を創立

下田助次郎は、小川氏の会計係となって働くうち、請負業の仕組みを会得し、この道で自立する決心をしたのだった。
請負業者は鉄道創業以来、鉄道建設に大きな役割を果たしてきたが、世間からは軽視され作業環境においても、決して恵まれた仕事とはいえなかった。しかし業者の中には、国有鉄道の井上局長からその実力を認められて、この業界に入った鹿島岩蔵(鹿島組)、「橋梁小川」の異名をとった小川勝五郎、又現業社の南一郎平、東大出身の菅原恒覧など優れた人材がこの業界を支えていたことも否定できない。その点、苦境に立っていた業者を援助したことが縁で、土木請負業界に入った下田助次郎も異色の存在であった。
明治26年(1893)には、鹿島組の下請けとなり、その間八戸線八戸~湊間一日市トンネル(152m)、常磐線水戸~岩沼間の金山トンネル(1,655m)等を下請け完成させ、その実力が請負業界で認められ、明治36年(1903)2月、下田助次郎は念願の土木請負業者「下田組」を創立した。
明治44年(1911)8月には、鉄道院東部鉄道管理局から、その能力がみとめられ「指定請負人」に指定された。
その後、鉄道工事で業績をのばし、東京土木建設業組合副会長、隅田川製紙株式会社社長、草津軽便鉄道株式会社取締役などの役職を兼ねていたが、昭和2年(1927)8月1日、下田助次郎は72才で死去、波瀾にとんだ人生を終えた。

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