時代と共に、時代を越えて
正道を歩み
誠、実、和を以て
凡ての信頼に応えよう
わたしども下田組は、明治26年(1893)、現社長下田秀史の曾祖父、下田助次郎によって創設され、以後、今日に至るまでの1世紀5代の長きにわたって、建設業ひとすじにおおくの実績を積み重ねてまいりました。
ご存じのごとく、創世記の頃は、時あたかも文明開化の時代であり、国を挙げて近代国家建設の道が進められておりました。国策として鉄道の建設や水力発電事業などが、活発に推進されていた時代であります。したがいまして、建設業もまた、その草創期には、急速な発展を遂げたわけであります。
創業者 下田助次郎は、こうした時代の大きな流れを先見し、建設業こそ将来を賭ける事業であると一念発起して、まず鉄道建設事業に身を投じ、鉄道50周年には当時の鉄道大臣より感謝状や金杯の授与にあずかるなど、多くの実績を残しました。また同時に十数年にわたって東京土木建築組合の副組合長として、建築・土木両業界の協調的発展に尽力いたしました。
昭和2年(1927)8月1日初代下田助次郎72才で死去後、下田組は弟の下田周太郎が2代目を引継、昭和8年9月久大線天ヶ瀬までの東線全線を完成させた後、昭和12年(1937)現社長の伯父、下田助作が下田組3代目を引継、志を海外に転じて、中国東北部(旧満州)において、満鉄開発などに貢献しました。
昭和20年(1945)終戦によって、その旧満州の下田組が解散するとともに、下田助作はシベリヤ抑留の身となるなど、多くの困難がありましたけれども、昭和25年(1950)に復員するや、ふたたび南足柄の地で下田組を再興、周辺西さがみの中堅建設業としての地歩を着々と固めてまいりました。
その間、下田助作は、地元である足柄上建設業協会長として、十数年の長きにわたって業界発展のために尽力してまいりましたが、昭和47年、やまいを得て他界いたしました。
4代目を引き継いだ下田正作は、兄、助作の遺業を継承し、堅実な施工実績による信用ある会社として、今日では官公庁をはじめとし、広く民間各社のお得意さまのご愛顧を受け、高い評価とご信頼をいただいてきました。
さらに平成元年(1989)5月には、時代とともに生き、時代を越えて社業を発展させるべく、下田秀史(下田正作・長男)が5代目を継承しました。
ご存じのごとく、創世記の頃は、時あたかも文明開化の時代であり、国を挙げて近代国家建設の道が進められておりました。国策として鉄道の建設や水力発電事業などが、活発に推進されていた時代であります。したがいまして、建設業もまた、その草創期には、急速な発展を遂げたわけであります。
創業者 下田助次郎は、こうした時代の大きな流れを先見し、建設業こそ将来を賭ける事業であると一念発起して、まず鉄道建設事業に身を投じ、鉄道50周年には当時の鉄道大臣より感謝状や金杯の授与にあずかるなど、多くの実績を残しました。また同時に十数年にわたって東京土木建築組合の副組合長として、建築・土木両業界の協調的発展に尽力いたしました。
昭和2年(1927)8月1日初代下田助次郎72才で死去後、下田組は弟の下田周太郎が2代目を引継、昭和8年9月久大線天ヶ瀬までの東線全線を完成させた後、昭和12年(1937)現社長の伯父、下田助作が下田組3代目を引継、志を海外に転じて、中国東北部(旧満州)において、満鉄開発などに貢献しました。
昭和20年(1945)終戦によって、その旧満州の下田組が解散するとともに、下田助作はシベリヤ抑留の身となるなど、多くの困難がありましたけれども、昭和25年(1950)に復員するや、ふたたび南足柄の地で下田組を再興、周辺西さがみの中堅建設業としての地歩を着々と固めてまいりました。
その間、下田助作は、地元である足柄上建設業協会長として、十数年の長きにわたって業界発展のために尽力してまいりましたが、昭和47年、やまいを得て他界いたしました。
4代目を引き継いだ下田正作は、兄、助作の遺業を継承し、堅実な施工実績による信用ある会社として、今日では官公庁をはじめとし、広く民間各社のお得意さまのご愛顧を受け、高い評価とご信頼をいただいてきました。
さらに平成元年(1989)5月には、時代とともに生き、時代を越えて社業を発展させるべく、下田秀史(下田正作・長男)が5代目を継承しました。
現在、若く新しいエネルギーを経営に取り入れるべく異業種出身の下田和孝(下田秀史・長男)が平成21年(2009)2月に6代目を継承し今日に至っております。
創業以来6代、1世紀の社歴は、けっして平坦なものではありませんでしたが、わたしども下田組は、常に創業の精神を忘れず、素直な正しい目で未来を見つめ、全社員一丸となって、これからもよい環境づくりに努めていくことをお約束いたします。
創業以来6代、1世紀の社歴は、けっして平坦なものではありませんでしたが、わたしども下田組は、常に創業の精神を忘れず、素直な正しい目で未来を見つめ、全社員一丸となって、これからもよい環境づくりに努めていくことをお約束いたします。
![初代社長 下田助次郎](https://www.simodagumi.co.jp/global-image/units/img/4606-5-20171222160928_b5a3cafa8d4268.jpg)
初代社長
下田 助次郎
下田 助次郎
![2代目社長 下田周太郎](https://www.simodagumi.co.jp/global-image/units/img/4607-5-20171222161030_b5a3cafe69bc21.jpg)
2代目社長
下田 周太郎
下田 周太郎
![3代目社長 下田助作](https://www.simodagumi.co.jp/global-image/units/img/4608-5-20171222161111_b5a3cb00fa5c3d.jpg)
3代目社長
下田 助作
下田 助作
![4代目社長 下田正作](https://www.simodagumi.co.jp/global-image/units/img/4609-5-20171222161207_b5a3cb0472fda2.jpg)
4代目社長
下田 正作
下田 正作
![5代目社長 下田秀史](https://www.simodagumi.co.jp/global-image/units/img/4802-5-20180205182815_b5a7823af6c63b.jpg)
5代目社長
下田 秀史
下田 秀史
![6代目社長 下田和孝](https://www.simodagumi.co.jp/global-image/units/img/6253-5-20180205182824_b5a7823b8ca25f.jpg)
6代目社長
下田 和孝
下田 和孝
沿革
HISTORY
明治26年 | 創業者下田助次郎、鹿島組(現鹿島建設)の下請けとなり創業。 |
明治36年 | 土木請負業・下田組を創立する。 |
明治44年 | 鉄道院東部鉄道管理局から「指定請負人」に指定される。 |
昭和2年 | 下田周太郎が二代目を継ぐ。 |
昭和12年 | 下田助作、三代目を継ぎ中国東北部(旧満州)にて事業を営む。(昭和20年終戦により下田組を解散) |
昭和25年6月 | 下田助作、大雄山駅前の地に下田組をふたたび設立する。 |
昭和27年6月 | 組織変更をし、株式会社下田組を設立する。 |
昭和30年9月 | 大雄山駅前に本社社屋を新築。 |
昭和34年9月 | 舗装工事の将来性に着目し他社に先駆けて市内怒田の地にアスファルトプラントを設置し、舗装工事部門に進出。 |
昭和39年5月 | アスファルトプラントを更新し、本格的に大型舗装工事を受注施工する。 |
昭和40年12月 | 市内雨坪の地に資材部を作り、倉庫・機械工場及び重機センターを整備する。 |
昭和44年8月 | 山北町山北の地に新鋭のアスファルトプラント(新潟鉄工製)を新設し合材販売を開始する。 |
昭和47年10月 | 社長下田助作死去により実弟下田正作が四代目社長に就任。 多年に亘る業界への貢献により下田助作、従六位勳五等を贈る。 |
昭和49年5月 | 最新鋭のアスファルトプラント(田中鉄工製)に更新。 |
平成元年5月 | 取締役社長下田正作が代表取締役会長に就任。 下田秀史が五代目代表取締役社長に就任。 |
平成2年11月 | 現在地に新社屋を完成するとともに、本社機構を大雄山駅前旧本社より移転する。 |
平成3年7月 | 関連会社・株式会社シモダを設立。 |
平成5年9月 | 代表取締役会長下田正作死去。 |
平成14年12月 | アスファルトプラントを松田アスコンと合併し、共同企業体西湘アスコンと名称変更し、松田町神山に移転。 |
平成21年2月 | 代表取締役社長下田秀史が会長に就任。 下田和孝が六代目代表取締役社長に就任。 |